記事のPoint
- 取引先からの海外生産切り替え通告を「じゃあ、うちが作ればいい」の一言で好機に変えた、たった一人の覚悟
- 社内の猛反対、資金の壁、慣れない異国での奮闘——阿部さんが5年間背負い続けたものとは
- その覚悟は今、宇宙分野やロボット開発という新たな挑戦を後押しする「何でもやってみよう」の文化になっている
“日本一の下請け”を掲げる会社がある。茨城県茨城町の、日東電気グループだ。
電子基板、プラスチック加工品、自動車関連部品、さらには宇宙分野に関わる部品まで。求められるものに徹底して応えながら、創業75年を積み重ねてきた。
そんな同社が大きく舵を切ったのが、ベトナム進出だった。取引先から告げられたのは、現地生産への切り替え。普通なら仕事を失う危機として受け止める場面で、阿部太洋さんはそうは考えなかった。
「じゃあ、うちがベトナムで作ればいい」
社内の反対も、資金の壁も、文化の違いもあった。それでも阿部さんは、自らリスクを背負って現地に飛び込み、日東電気の新たな可能性を切り拓いていった。

代表取締役社長 阿部太洋さん
日東電気株式会社の代表取締役社長。家業に入り、現場で叩き上げで、ものづくりの厳しさと面白さの両方を学んできた。高校時代にはアメリカ留学も経験。未知の環境にも飛び込む行動力を培ってきた。国内市場の先細りを見据え、社内の反対を押し切ってベトナム進出を決断。自ら現地に渡って工場立ち上げをやり遂げた。今も宇宙分野や自社開発など新たな挑戦を続ける、何でもやってみよう!を体現する経営者である。

日東電気グループ
茨城県茨城町に本社を置く、創業75年のものづくり企業。電子基板、プラスチック加工品、自動車関連部品など、顧客ごとの要望に応じて幅広い製品を手がけてきた。特定の一分野に特化するのではなく、求められたものを形にする、総合力を強みに成長してきた会社。同社が掲げるのは、“日本一の下請け”という一見挑戦的な言葉。そこに込められているのは、顧客の期待に徹底して応え抜くという誇りと覚悟。近年はその強みを土台に、海外展開、宇宙分野への参入、ロボット開発にも着手。進化を続ける注目企業である。
ベトナムの顧客からの通告と、反対を押し切った「日本一の下請け」としての覚悟

ある日突然、ベトナムの顧客から連絡が来た。
「今後はベトナム国内で部品を製造したい。だから、貴社との取引関係を見直したい」
売上減少の知らせだったーーー。迫り来るグローバル化の波。取引終了の連絡は、今回が初めてではなかった。
「またか・・・」社内に諦めムードが漂う中、阿部さんはただ一人前向きだった。
「じゃあ、うちがベトナムに工場を作ればいい」
ピンチの顔をしたこの出来事を、海外進出のチャンスだと捉えたのである。
阿部さんの発想に、社内は大反対。売上環境は厳しく、数億円単位の工場建設への投資は難しい。しかも、過去にブラジルやタイなどへの展開を検討し、土地まで買いながら、最終的には撤退した経験がある。そうした経緯もあり、社内には「うちは海外には向かない」という空気があった。
それでも阿部さんは引かなかった。2年をかけ、5回も長期の現地視察を繰り返し、ベトナムで製造する合理性を社内に説明し続けた。工場の建設予定地は港もあり、ベトナムへの輸送効率はもちろん、アジア圏への展開も見据えられる。ベトナムは単なる安い生産地ではなく、アジア戦略の拠点になり得る――。情熱を持って言い続けることで、少しずつ周囲の見方を変えていった。
とはいえ、資金面の壁は大きかった。最終的に社内から示された条件は厳しいものだった。
「3000万円なら予算を出す」
通常は数億円単位の工場建設。流石に3000万円では焼け石に水。しかし阿部さんは、その条件をのんだ。
「会社がここまで動いてくれた。お金のことは、工夫で何とかならないかを最大限に考えることにしました。会社の未来のために、どうしても、どうしても、このプロジェクトを成功させたかった。日東電気らしさを失わずに、生き残る道をつくりたかったから」
阿部さんは熱い眼差しでそう語る。“らしさ”の象徴が、”日本一の下請けであり続けたい”という想いである。
下請けという言葉に、受け身のイメージを持つ人もいるかもしれない。しかし日東電気にとっては、顧客の期待に真正面から応え続けてきた誇りそのものだ。相手のために考え、動き、求められた以上の価値を返していく。その姿勢こそが、この会社の強さだった。
だからこそ阿部さんは、顧客が海外での生産を求めるのであれば、その力を国内にとどめておく理由はないと考えた。世界に顧客がいるなら、世界に工場を構える。日東電気が日東電気であり続けるための、現実的な一手だった。
予算3000万と知恵で挑んだ、最小リスクの海外進出と現地での奮闘

通常の工場建設は、数億円単位の資金を必要とする。会社からの予算3000万円では到底足りない金額だった。
「限られた資金しかない。知恵を絞らねばーーー」
阿部さんは正攻法で行くのをやめ、徹底的に小さく始める方法を考え抜いた。まず、土地は買わずに借りた。現地で一緒に調査をしていた社員が「レンタル工場があるよ」と情報提供。阿部さんはこれに飛びついた。
設備にもお金はかけられない。通常は、1台数千万円の機械を数台購入する。しかしそんな予算は無い。あえて機械化せず、日本から金型だけ持ち込むミニマムスタイルでスタート。
それでも資金は足りない。原材料の購入費はどうしても必要だ。阿部さんはここでも頭を捻る。材料は日本の本社から調達し、買い掛け金として、工場が軌道に乗るまで支払いを待ってもらった。あの手この手でリスクを極力小さくして、一歩目を踏み出した。
資金以外にも予想外の事態が起きた。責任者として赴任予定だった社員が、「やはり行けない」と言い出した。当時、阿部さんの子どもは生まれたばかり。妻も現地に行くなら、慣れない環境で育児をさせることになる。それでも阿部さんは、自らが現地に行くことを決めた。
「自分で決めたことだから、自分でやるしかない」
その執念が海外進出を現実に変えていった。
現地に渡ってからも順風満帆な日々とは程遠い。文化が違う。言葉のニュアンスも違う。常識も違う。20人採用したと思ったら、3日目にはストライキが起きた。休憩の合図に使いたくて「チャイムを買ってきて」と頼んだら、設置されていたのは火災報知器だった。笑うしかないような行き違いも日常茶飯事。
何かしらのトラブルが起こる毎日に、誰しもがめげたくなるだろう。だが阿部さんは、その“しんどさ”に飲み込まれなかった。腹の立つことも、困ったこともブログに書いた。愚痴でもあり、記録でもあり、自分を保つための装置でもあった。現地の出来事を面白おかしく発信していくうちに、そのブログを楽しみにする読者も増えていった。苦労をユーモアに変える工夫で、自分自身も前を向けた。
ぶつかりながらも現地スタッフと向き合い、少しずつ信頼関係を築いていった。すると、彼らは想像を超える発想や工夫を見せるようになる。行き違いに悩まされる一方で、「そんなやり方があるのか」と驚かされ、助けられることも増えていった。
挑戦とは、勢いだけでは続かない。違いを面白がりながら、粘り強く向き合うこと。阿部さんのベトナムでの日々は、その連続だった。
5年後、2016年に日本へ戻る頃には、ベトナム工場は安定して稼働するまでに成長していた。
数億円の事業への成長と、それがもたらした「何でもやってみる」組織文化

あの時の一歩は、確かな成果につながった。ベトナムの事業はその後成長し、今では数億円単位の売上を生み出している。何より大きかったのは、社内の見方が変わったことだろう。日東電気にとって海外進出は特別な冒険ではなく、会社の選択肢の一つになった。
当初は反対され、無謀だと思われていた挑戦が、今では多くの社員に、「あれは必要だった」「あの判断が無ければ、今頃会社はどうなっていたことか」と語られる。阿部さん自身も、その事実が大きな自信になったという。
「やっぱり、やらなきゃいけなかったんだと思う」
みんなが渋ることでも、自分が信じるならやる。自分が引っ張るしかないなら、自分が先頭に立つ。その経験は、単なる成功体験ではなく、日東電気の今後の挑戦を支える土台になっている。
失敗は、挑戦をやめた時に初めて失敗になる。続けていれば、経験として次の武器になる。阿部さんの言葉の端々には、そんな実感が滲む。
今、阿部さんのなりたい・ありたい姿は、日東電気にモノづくりをお願いしたら、何でも作れるワンストップ企業であることだ。お客様の期待を超える価値提供にプライドを持つ、日東電気らしいなりたい・ありたい姿だ。
今や宇宙関連製品の部品作りや、工場内のロボティクス開発などの新規事業にも乗り出している。海外進出で培った、「まずやってみよう」という文化が、確かに会社の中に根づいているのだ。その姿勢を武器に、阿部さんと日東電気の挑戦は続く。
編集後記
そして、こういう人がいる限り、日本のものづくりはまだまだ面白くなる。これからの時代が楽しみだ。阿部さんはチャレンジする人だ。けれど、ただ勢いで突っ走るタイプではない。やると決めたら現地を見て、理屈を立てて、周囲を説得し、資金の工夫まで考え抜く。勢いと現実感覚を、どちらも持ち合わせている。それでも最後に背中を押しているのは、理屈だけではないのだと思う。「何でもやってみよう」という気持ち。未知のものに対する好奇心。そして、自分たちの会社にはまだできることがあるはずだ、という信念。英語が苦手だった高校時代にアメリカへ渡り、海外への抵抗をなくしたこと。ベトナム進出で自ら最前線に立ったこと。宇宙分野にも、ロボット開発にも、まず手を挙げること。すべてが「何でもやってみよう」という一本の線でつながって見える。その根幹にあるのが、働く人も、取引先も、関わる人みんなが少しでも幸せになれるようにしたいという想い。ハッピーメーカーというスローガンを会社で掲げている。茨城に、こんなにも熱く、しなやかに挑戦を続ける経営者がいる。その事実だけでも、私は勇気をもらった。かっこいいと思った。
