記事のPoint
- 樫村さんは、安定した契約(東京方面への出荷)を、自らの意思で手放した
- きっかけは父の大怪我。「誰かが欠けたら経営が止まる」という恐怖に直面したことだった
- 決断から数年、樫村ふぁーむの経常利益は前年の10倍にまで急成長している
茨城県日立市の最北部、山と海に囲まれた土地で50年以上、農薬や化学肥料を使わない有機農業を続けてきた樫村ふぁーむ。
二代目の樫村智生さんは、確実に収入が入ってくる契約を自らの意思で手放すという、大きな決断をした1人だ。安定を手放すことは、それ自体が恐怖でしかない。それでも樫村さんが踏み出せた理由には、DOITERが伝えたい「一歩踏み出す勇気」のヒントが詰まっている。

樫村ふぁーむ 樫村智生さん
茨城県日立市で環境に配慮した循環型農業を営む、樫村ふぁーむの二代目。5人兄弟の3番目で家業を継ぐ立場ではなかったが、10代の終わりから農業の道に入り、以来約20年にわたり経営の中枢を担ってきた。経営者として、樫村ふぁーむの売上を伸ばし続けている。

株式会社樫村ふぁーむ
茨城県日立市で50年以上、農薬や化学肥料を使わない、環境に配慮した循環型農業を続けてきた農業法人。年間100種類以上の野菜やお米を栽培し、地域のスーパーや直売所、飲食店などに販売している。
継ぐ気のなかった三男が、農業の世界に飛び込むまで

樫村さんは5人兄弟の3番目。長男ではないため、家業を継ぐ立場では本来なかった。それでも農業そのものが嫌いではなかった樫村さんは、高校卒業後、茨城県立農業大学校への進学を選ぶ。
学校は寮生活で、月曜から金曜までは寮で過ごし、金曜の夕方に実家へ戻ると、そこからが本当の仕事だった。当時の樫村家は東京方面への野菜出荷が主力で、金曜の夜から日曜まで、朝6時から夜中の2時、3時まで働く日々。父も50歳となり、体力的な衰えから怪我をすることもあり、家族を助けたい気持ちもあった。
学校がある平日はアルバイトも入れながら、週末は家業に全力を注ぐ生活を半年ほど続けた末、樫村さんは学校を離れる決断をする。整った授業よりも、目の前の畑で体を動かしながら学ぶことの方が、自分にとってはるかに多くを教えてくれる。そう感じた樫村さんは、18歳から本格的に家業へ入った。
とはいえ、当時はまだ「経営」を意識できていたわけではない。「言われた仕事をやるだけ」の20代前半だったと、樫村さんは振り返る。18歳の頃から記入を続けている手帳には、その頃の記録がそのまま残っている。
けれど、その「やらされる仕事」は、やがて樫村さんに本物の恐怖を突きつけることになる。
深夜2時までの配送、そして父の大怪我が突きつけた恐怖

もともと樫村ふぁーむの主力販路は、首都圏の契約出荷先を通じて茨城の野菜を東京方面へ送る「東京出荷」だった。ところがあの震災が起きた2011年、風評被害によってこの東京出荷の量が6割5分もカットされる。これがきっかけで、樫村さんたちは地元・茨城県内のスーパーへの営業を少しずつ増やし始めた。
だが、東京出荷そのものをやめたわけではない。むしろ震災後は輸送コストの都合で集荷場所が変わり、時間指定はどんどん厳しくなっていった。往復7時間の配送を、日中の農作業と並行してこなす生活が何年も続く。ある時は、配送を担当していた兄が道中でタイヤバーストに遭い、夜中の3時に帰宅するということもあった。
そして、決定的な出来事が起きる。父親がドラム缶の荷下ろし作業を一人で無理して行い、足を挟んで開放骨折の大怪我を負ったのだ。よりによって稲刈りシーズンの真っ只中。出荷も稲刈りも、一気に滞った。
「誰かに何かあった場合は間に合わない、どうしようもないよね」
樫村さんの中に、この言葉がずっと残り続けた。誰か一人が欠けただけで、経営そのものが立ち行かなくなる。その恐怖と、正面から向き合わざるを得ない出来事だった。
「間違いなくお金は入ってくる」契約を、自ら手放した日

東京出荷さえ手放せば、深夜3時までの労働はなくなり、もっと無理のない体制で会社を回せる。そのことは、樫村さんにもうすうすわかっていた。
とはいえ、東京出荷を手放すことには大きな不安が伴った。
「契約栽培なら、間違いなくお金は入ってくる」
樫村さんが何度も口にする、この安心感。年間を通じて収入が確約されている契約を自ら手放すことは、コストや作業の遅れといったリスクと引き換えに、この「間違いない収入」を手放すということでもある。父の大怪我からまだそう時間も経っておらず、簡単に踏み切れる話ではなかった。
家族で何度も話し合った。このまま同じ働き方を続ければ、また同じことが起きてもおかしくない。その恐怖は、確実な収入を手放す不安よりも、樫村さんの中で次第に大きくなっていった。揺れ動きながらも、最後に樫村さんの中に残ったのは、無理のない体制を作らない限りこの先の成長はない、という思いだった。
稼ぐことよりも先に、守るべきものがある。そう腹を括ったとき、樫村さんの中で決断は固まっていた。
決断を後押ししたのは、いくつかの条件が同じタイミングで揃ったことだった。東京のIT関連会社から年間契約の打診があったこと。地元スーパーでの売上が少しずつ伸びていたこと。そして、もち米を加工したあんこ・きな粉・いそべなど「すぐ食べられる」お餅の商品がヒットし始めていたこと。この3つが重なったタイミングで、樫村さんは東京出荷をやめる決断をする。
作付け計画も大きく見直した。大根・白菜・キャベツといった大型野菜中心の契約栽培経営から、コンパクトな野菜やお米を軸に、中量多品目で、地元に野菜を販売する経営へと舵を切ったのだ。
経常利益、まさかの10倍

東京出荷をやめたことで、深夜2時、3時までの労働はなくなった。休みも取れるようになり、両親も、無理をせず働けるようになった。
面積を大きく増やしたわけではない。それでも、配達に振り回されて後手に回っていた作業を計画的にこなせるようになったことで、樫村さんたちは、地域の取引先、そして作物と丁寧に向き合うだけの余力が生まれた。
コロナ禍では、多くの飲食業が苦しむ中、家庭向けの需要増加で売上が伸びた。台風で苗が流された年も、なんとか持ち直した。米価が高騰した年も、備蓄していた米と、日頃から積み重ねてきた信頼関係のおかげで安定供給ができ、直接取引の飲食店から「来年もお願いします」と言われる関係を築けている。目先の利益より、丁寧な仕事の積み重ねが結果につながる。それが今の数字に表れている。
「経常利益で言うと、去年からすると10倍ぐらいに上がってる」
安定した収入を手放すことは、それ自体が恐怖でしかない。けれど樫村さんが証明したのは、その恐怖の先にこそ、次の成長が待っているということだ。今、変化を恐れて立ち止まっている経営者にとって、樫村さんの選択は、一歩を踏み出す後押しになるはずだ。
編集後記
取材を通して感じたのは、樫村さんの強さは「頑張り続けること」ではなく、「思い切って手放せること」にあるのかもしれない、ということでした。深夜までの過酷な労働も、間違いなく稼げる契約も、本当に大切なものを守るために、樫村さんは一度手放しています。何かを得るために、何かを手放す。その決断こそが、次の成長につながっていくのだと、樫村さんから学びました。(編集部・須貝)
