業界平均の3倍以上の売上でも幸せではなかった──パン屋経営者が見つけた“本当の豊かさ”

パン工房ぐるぐる栗原 淳平

茨城県那珂市の住宅街に、朝から人の列がのびる。パン工房ぐるぐる。開店前、スタッフが「いらっしゃいませ、おはようございます。」と小さく頭を下げる。焼き立ての香りが風に乗り、トングを握る音、オーブンの扉が閉まる金属音、子どもの背伸びする足音。駐車場には県外ナンバーの車も珍しくない。業界では1店舗年商3,000万円が成功の目安とされるなか、ぐるぐるは3店舗で年商2億4,000万円を達成。だが、その成功の只中で、社長の栗原淳平さんの心は、静かに摩耗していた。

DOITER

代表取締役 栗原 淳平 さん


株式会社ぐるぐる

誰よりもおいしいパンを目指して

原点は台所にある。幼い彼は、お菓子作りが好きだった。クッキーもケーキも、レシピ通りにやればきれいにできる。同じ分量、同じ手順でも、ふくらみ方も、香りも、日によって変わる。

「なんでだろう」考えて、こねて、また失敗する。“できない”が好奇心のスイッチになった。高校進学の入口で、家業の農家を継ぐ選択肢も頭をよぎる中、「誰よりも美味しいパンを作れるようになりたい」と決意し、パン職人の世界に飛び込んだ。

専門学校を出て名店に入り、修行を重ねた。毎日繰り返す大量のパン作りに腕が悲鳴を上げても、翌朝にはまた来てくれるお客様のためにパンを焼く日々。そして念願の独立。パンの美味しさから小さな店は評判を呼び、仲間が増え、売上は伸びた。目指してきた夢は叶った——はずだった。

成功の裏で、心が擦れていく

店舗が増えるころ、厨房の空気が変わった。ピークの時間帯、たくさんのパンがひっきりなしに焼きあがり、「焼きたてでーす!」の言葉が行き交う。

誰かが手順を間違えると、空気が一瞬で凍る。「どうして指示通りにできないんだ!」

社長である自分の声が一番大きく、よく響いた。注意が指導に変わり、やがて怒号に変わる。数年たつとほとんどのスタッフが入れ替わる。家庭では会話が減り、帰宅しても家族の寝顔ばかりを見る日が続いた。

数字は伸びるのに、気持ちは削れていく。売上が伸びれば幸せになれると信じてアクセルを踏むほど、どこかが空回りする。そして募る、「自分ばかり頑張っている。どうして周りはもっと頑張ってくれないんだ……」という感情。

ある朝、出勤途中の車の中で、ふと口をついた。「……俺、何のためにやってるんだろう」。虚しさが心を襲う。信号が青に変わっても、アクセルに足が落ちなかった。

学びへの扉──経営を心から見直す

すべてが嫌になってしまいそう……。現状を打開する方法を模索する中で、栗原さんは経営大学院の門を叩いた。戦略、リーダーシップ、クリティカルシンキング——パン職人としての道を極めてきた一方で、経営の知識を体系的に学ぶのは初めてだった。食い入るように勉強し、現場に活かす方法を探った。

おかげで経営面は、以前と異なるアプローチが取れた。例えば、論理的に物事を説明することでスタッフに伝えることができた。戦略や組織について学んだことで個人店から組織へと成長するビジョンを描き実行することができた。数字が現場の会話に変わる手応えも得た。貸借対照表では資金回収の遅れを把握し、キャッシュフローの目詰まりを解消した。

しかし、心の渇きは消えない。人間関係は何の改善策も取れていなかった。そんなとき、あるコンサルティング会社の研修で聞いた一言が胸を射抜いた。

「他人と過去は変えられない。変えられるのは自分と未来だけ」

この瞬間、衝撃が走った。これはパンを学んできた師匠が言っていたことだった。自分が正しいと信じ、正しさで人を動かそうとしていた。自分が一番頑張っている、だから同じ熱量を求める——その正しさが相手の自由を奪い、関係を細くしていった。努力の限界ではない。心のズレだったのだ。パンの温度と時間は丁寧に見ていたのに、人の温度と時間は見ていなかったのではないか——。

以後は、業績と関係性の両立を軸に学びを継続した。

“ありたい姿”を言葉にする

栗原さんは、自分の“ありたい姿”をはっきりと言語化した。

「縁ある人を物心両面の幸福に導けるリーダーでありたい」

この一行がハンドルを握り直させた。今までは売上を上げ、物質的な豊かさを得られれば幸せになれると信じ、突き進んできた。しかし、自分自身の人生の幸せとは何か?を見つめ直した時、自分の周りの人が幸せでいることが、自分の幸せだと気づいた。ならばそこをゴールに、できることをやる、と腹を括った。

厨房でも変化が始まる。ミスが起きたとき、怒鳴る代わりに何が起きたかを一緒に振り返る。

「いまの手順で、どこがやりづらかった?」

問いを変えると、現場の空気も変わった。初めは戸惑っていた社員達も、ありたい姿に向けて本気で変わろうとする社長の姿勢が伝わり、徐々に信頼を寄せるようになった。試作のテーブルでは、いつの間にか笑い声が聞こえるようになった。

そして社員達は、以前より主体的に仕事をするようになっていった。売上では測れない幸せを目指した経営が動き出し、従業員の主体性という着実な結果となった。栗原さんが毎日目にする景色は、社員が社員自身のなりたい姿、幸せに向かって真剣に取り組む店に変わっていった。自らのありたい姿に近づいたのだ。

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